成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

12日目:思ったよりも授業がきついぞ

 本題に入る前に、仕組みなどをつらつらと書いてみたい。こちらの授業はコース単位での登録となっており、一つのコースが週に複数回あることが多い。早い話が、同じ授業のコマ数が週に2つであることの方が多いのだ。また、弊大学と同じく1セメスター2ターム制であり、1つの学期をさらに2つのピリオドに分けた単位が1単位となる。そこまではいい。

 

 公式に留学生向けに準備されている授業は、あまり面白そうではなかったために、修士課程生向けの授業に手を出したのが間違いだったのかもしれない。こちらの修士課程の授業は(ほぼ?)全て英語で行われるため、教授の許可さえあれば単位の有無はともかく履修は可能である。一番受けたい知覚科学モデル論の授業は履修システムのトラブルでまだ受けられるかわかっていないのだが、ともかく今まで北欧福祉論と民族誌、それから開発政策と仲裁の授業を受けた。

 

 北欧福祉論は所謂オムニバス形式で、担当教員の何訛りなのかもよくわからない英語の聞き取りに難がある以外は問題なさそうである。ただ最終レポートが英語で4000-4500語という今まで書いたことのないような分量であり、書き上げるのもおぼつかないのが悩みだ。まあピリオドの変わり目に苦しむことだろう。

 

 民族誌は方法論かと思ったら実際に軽くフィールドワークをしてみましょうというもので、方法論を学びつつ実践もしようというなかなかハードなコースである。初回の授業でガイダンスとともに2つ文献を渡され、じゃあ明後日までに読んできてねと軽い調子で言われたので、まあ数ページ程度だろうと思っていたところ、なんとB.マリノフスキー「西大西洋の航海者」の序文 (二十数ページ) と現代の民族史の方法論(Hannerz, U. (2003). Being there...and there...and there! Reflection on multi-site ethography Ethnography, 4(2):201-216)であって、なかなか歯ごたえのある文献であった。こんなものをポンと渡されたのではたまらない。次回の授業はこれを踏まえた議論などが展開されるだろうし、なかなか先が覚束ない。

 

 輪をかけて凄いのが開発政策と仲裁の授業である。講師がイギリス帰りだからか、週1の授業のくせに授業外の作業がかなり多い。ガイダンスしかない今日の授業では文献2つとそれについての感想、さらに他の生徒の感想にコメントをつけるというものであり、なんというか、「そんなにやらなきゃだめなんですか!!!!?!?!?」という感想しかない。

 

 ここまで課題の多さで授業を測ってきたが、授業内の議論がなかなか辛い。少人数グループの議論でも何か意味のあることを言おうとあたふたしながらなんとか英語をひねり出しているのに、まして教授から全体への質問に答えるなど全く不可能に近いい。"Anybody?"なんて聞かれても、こちとらやっとこせ質問の意味を理解している途中なのだ。そんな人間がすらすらと答えを返せるわけがない。なんとか幼稚なことをひねり出している自分が、日本の大学で的外れで幼稚な答えしか返せていなかった人間と重なるのだ。そして教室を見渡せば、他にも隠れるようにして授業を受けているアジア人が目につき、一方白人は皆真剣な顔つきでネイティブのような英語を話すのである。そうして主張しない人間を排斥していく空間の中で、いないものとして扱われてもよいと開き直れず、かといって満足に主張ができないというのは非常につらいものだ。

 

 「慣れだ」と言われてしまえばそれまでだが、ある意味アカデミックな文化の違いが一番のカルチャーショックかもしれない。求められることが全く違うのが今日になってストレスになり始めた気がする。別に英語ができないわけじゃない。ただ君たちの速さについていけないのだ。

 

 とはいえ、先は長い。まだ2週間も経っていないのだ。物事が順調にいかないのは想定通りで、それをなんとかできるかが今後の挑戦といったところではないだろうか。それに、別に多少単位を落としたところで強制送還されるわけでもないのだ。気楽に構えて楽しむくらいの心意気が必要なのかもしれない。特に長い冬に絶望しないためには。