成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

52日目:Sicut erat in principio, et nunc et semper, et in saecula saeculorum.

 この週末、友人の別荘にお邪魔させてもらっていた。こちらの中流以上の家庭は田舎、というか森の中か湖畔に別荘を持つのが基本らしく、こじんまりとしていながらなかなか立派な造りの建物に感心した。

 

 私の友人とその彼氏が主催し、友人一同を招くという形だったのだが、私以外全員がフィンランド人であったため、正直壁の花に追いやられた面も否めなかった。それでも色々な人と語らい、またフィンランドならではの経験もできた。

 

 ところで別荘の居間には安楽椅子もどきがあり、特に会話に入れないときなど、なんとなくそこに座ってはぼーっと考え事などしていた。たぶん半日くらいは座っていたように思う。あまりに居心地が良すぎたため、「もう人生これでいいんじゃないか」などとも考えたくらいである。仲の良い友人・家族と週末に暖かい部屋で過ごす。それは間違いなく一つの理想だったからだ。

 

 しかし同時に、こうは生きられないなという気もした。友人氏は前にも書いた結婚秒読みの彼女であり、今回の旅行中も彼氏との仲睦まじい様子が微笑ましかった。週末に別荘までドライブし、友人と語らい、また日常に帰っていく。まさに理想を体現した旅行だったからこそ、その理想と私を取り巻く現実の間の想像を絶する距離に気付かされたのだ。

 

 もちろん、先のことはわからない。9回裏逆転満塁ホームランよろしく、大どんでん返しで数年後に同じようなイベントを主催しているのかもしれない。だが今まで進路としてなんとなく考えていた道では、そこに辿り着いている自分はどう頑張っても想像できなかった。別荘のひとときは多少違っても間違いなく心の中に思い描いていたもので、それが1つの形を帯びて眼前に突き付けられてしまえば、粗探しをする気も起きずに納得せざるを得ない。旅行が終わって帰ってきた今、改めてそのことを考えると、仕方がないようなやるせないような、そんな気持ちがする。

 

 理想のために人は頑張れるなどというが、頑張っても叶えられない理想はどうすればよいのだろう。その何分の1かで満足するべきなのか、それとも別の理想を持つべく努力すべきなのか。理想なしでも生きられる世の中であればこそ、理想の一つもなしに20代を過ごすというのはあまりに虚しいではないか。

 

 フィンランドの短い秋は終わりに近づいている。長い冬を何度か越せば、彼らは家庭を持つだろう。そしてまた別荘に友人たちを招待して、慎ましく暖かな幸せを享受するに違いない。その時、私は一体何をしているのだろうか。