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この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

生存報告/幕末太陽傳

 生存報告がわりに、某所で書いたレポートを掲載する。幕末太陽傳をたまたまみて、ちょうどメディア論的な授業を取っていたので勢いで書いた。内容はお粗末だが、初めて文系的な調べ物をがっつりしたので楽しかった。

 

仮題:なぜ佐平次は「庶民の救世主」なのか 幕末太陽傳評に見る日本社会の変化


0.基本情報
1957年 (昭和32年) 日活作品
監督:川島雄三
脚本:田中啓一 川島雄三 今村昌平
出演:フランキー堺石原裕次郎小林旭左幸子、南田遥子ほか
ノミネート:
1957年 キネマ旬報ベスト・テン 日本映画第4位
1992年 日活映画オールタイム・ベスト・テン 第1位 (キネマ旬報)
1999年 キネマ旬報創刊80周年記念映画100選 日本映画第5位
2009年 日本映画オールタイムベスト 第4位 (キネマ旬報)

あらすじ
「浮世の風にうつつを抜かし女追うのも御時世ならば国を憂うもまた時世。乱世の幕末に躍り出たチョンマゲ太陽族の艶笑秘聞。
時は、幕末、文久2(1862)年。東海道品川宿の相模屋という遊郭へわらじを脱いだ佐平次(フランキー堺)は、勘定を気にする仲間を尻目に、呑めや歌えの大尽騒ぎを始める。しかしこの男、なんと懐には、一銭も持ち合わせていなかった…。居残りと称して、相模屋に居ついてしまった佐平次は、持ち前の機転で女郎や客たちのトラブルを次々と解決していく。遊郭に出入りする攘夷派の高杉晋作石原裕次郎)らとも交友を紡ぎ、乱世を軽やかに渡り歩くのだった」[1] 。

 

1.制作経緯:「太陽族」と「太陽傳」
 1956年に日活は、石原慎太郎原作『太陽の季節』を、慎太郎の弟である石原裕次郎を出演させて映画化し、「『客来らざる名作の日活』とか『肉カツ』映画とかいう嘲笑をしりめに,俄然上り坂となった」[2] 。この大ヒットを受けて、『狂った果実』や『日蝕の夏』といった石原慎太郎原作、石原裕次郎出演の「太陽映画」が製作され、これらの映画から影響を受けた「太陽族」と呼ばれる若者たちの出現は社会問題となった。映画評論家の佐藤忠男は、当時の若者という表象には、生真面目で勤勉なエリート青年像が一般的だったため、不良学生を活き活きと描いた『太陽の季節』に対する世間の反発は大きく、映画製作側でも折り合いをつけるための試行錯誤が求められたと分析した上で、『幕末太陽傳』をその試みの一つに位置付けている[3] 。

 

2.同時代評価:純日本型の新しい喜劇
 公開当時『幕末太陽傳』の広報には「今年中に、これほど面白い映画はあるかしら!!」というようなキャッチコピーが用いられ、大きい広告ではフランキー堺 (佐平次) のふざけ顔と、石原裕次郎の笑顔が同じ大きさで用いられている[4] 。新聞に掲載された公開直後の評価としては「野心的な高級喜劇」[5] や「みごとな喜劇」[6] というように喜劇性を評価するものであり、キネマ旬報での評価もおおむね似た傾向を示している。1957年のキネマ旬報ベスト・テンでは4位に選出され、積極的に評価を加えている選者からも「『太陽伝』は数少い邦画喜劇の誕生を祝った」 (岡田誠三大阪朝日新聞学芸部) 、「新らしい喜劇のジャンル」(岡田晋・キネマ旬報編集部)と、喜劇としての出来栄えを讃えるコメントが目立つ。選者にはおおむね3位以下に選出される一方で、唯一『幕末太陽傳』を1位に選出したのは評論家の鶴見俊輔であり、「日本映画の開拓線を進めたものだと思う。」とコメントしている[7] 。



【省略:図 読売新聞1957年7月11日の広告】

 

 ただし、公開当時から『幕末太陽傳』を深く解釈しようとする試みは散見される。映画評論家の飯田心美は、「純粋の日本喜劇」であると評価しつつも、次のような評論をキネマ旬報上に掲載している[8] 。

 

【省略:飯田心美のレビュー】

 

さらに、同じく映画評論家の井沢淳も、「古典落語に不案内なので、これが、どんなものから考え出されたか、よく分らない」と断った上で、「川島演出は、鑑賞者を試そうとしているのかと思うほど、ひねってある。」と、喜劇以上の主題を読み取るべきだという姿勢を見せている[9] 。

3.後世評価:「庶民の理想像」としての佐平次
 以上のように、公開当時の『幕末太陽傳』評は「太陽族」の流れをくむ「新しい喜劇」といったものであり、そこで扱われている主題の考察も散見された。一方で後世においては、新田の指摘している、佐平次の持つ「独特のヴァイタリティ」へと注目が集まっていく。1990年に朝日新聞には、作家の立松和平の評論が掲載されている[10] 。

 

【省略:立松和平のレビュー】

 

立松はここで、1990年代当時の社会の状況に適応する「庶民の理想像」を見出している。これ以降も『幕末太陽傳』評では、喜劇性への言及よりも「独特のヴァイタリティ」の類語で形容されることが増える。2011年には『幕末太陽傳』のデジタル修復版が公開されるが、その前後の新聞記事では、「乱世を才覚で生き抜く」[11]、 「幕末の動乱をたくましく生き抜く庶民の群像」[12] などの言葉が並ぶ。
さらに、この「ヴァイタリティ」と、立松の指摘する「変革期」の関連付けもしばしば行われる。2011年の朝日新聞の記事では、震災後の日本に『幕末太陽傳』がよみがえることは「象徴的」としたうえで、映画評論家山根貞男の「庶民のバイタリティーを凝縮した主人公」という評価を添えている[13] 。さらに2020年にはコロナ禍のなか、京都の出町座支配人である田中誠一が、佐平次の生命力の強さに「あやかろうと思った」ために、『幕末太陽傳』を上映した[14] 。

 

4.川島雄三の『幕末太陽傳』:佐平次に何を託したか
そもそも川島雄三は『幕末太陽傳』を、また佐平次を描き出すことに、どのような意味を込めたのだろうか。川島は制作当時のインタビューで「単なる落語映画でなく”首が飛んでも動いてみせまさあ”といった当時の庶民の生命力と、その半面人間の生きる悲しさといったものを喜劇風に描きたい。遊郭を舞台にとったのも当時の社交場だからだし、吉原でなく、宿場町の品川にしたのも、旅を人生の象徴と見てからのネライだ」と語っている[15] 。同年のキネマ旬報でも、佐平次と高杉晋作の持つ「ヴァイタル・フォースとでもいうべきものを与えているエネルギイが予想以上に強」いとしたうえで、作品のテーマを「積極的な逃避」としている[16] 。また、翌年の「中央公論」に掲載された映画評論家の岩崎昶・草壁久四郎との対談では、『幕末太陽傳』の評価が「表面に出たドタバタ的なことしか、みなさんに理解していただけない」ことを嘆きつつ、作品の主題について次のように述べている。

 

【省略:川島雄三・岩崎昶・草壁久四郎の対談】

 

 この対談の中で、「積極的逃避」や「偽善への挑戦」がどういう意味なのかは明かされない。しかし、佐平次役を務め、川島の弟子を公言していたフランキー堺は、佐平次がラストシーンにおいて走り去るのではなく、そのまま1957年当時の品川へ現れるというシーンを川島が考察していたことを回想している[17] 。さらに、当時の川島について次のように述べている[18] 。

 

【省略:フランキー堺のインタビュー】

 

 脚本家の山内久 (田中啓一) も、川島自身が佐平次を古典落語に登場する飄々とした人物ではなく、敢えて肺病に侵されるという設定に変更したことを報告している[19] 。これらの証言から、佐平次に対し川島が持たせた複数の意味が明らかになってくる。第一には、川島自身の投影であろう。川島は戦後の変革期にありながら、現実から「積極的な逃避」を行い、放蕩三昧で生活していた。しかし日活からは「走り去って」しまい、病気により45歳にして没する。しかし、『幕末太陽傳』は佐平次を川島に見立てた、単なる私小説的な内容ではない。川島は佐平次に、上から民主主義を与えられてしまった「戦後の生き残り共」、すなわち知識人の姿を投影する。主義主張もなく時代に翻弄されつつも、「首が飛んでも動いてみせるバイタリティー」は、思想においても生活においても波乱が多かった当時の社会で、まさに必要とされたものではないだろうか。

 

5.「新しい喜劇」から「庶民の理想像」へ:なぜ『幕末太陽傳』は日本を代表するのか
 以上の考察から、川島が自身および戦後の知識人の葛藤を喜劇として描き出したのが『幕末太陽傳』であるという説が示された。しかしこの説だけでは、なぜ現代にいたるまで『幕末太陽傳』評が変化してきたのか、「日本を代表する映画」になったのかを説明できない。それを説明する説として、筆者は日本社会自体の変化を考えた。『幕末太陽傳』の公開された1957年当時、日本社会では第三次産業の就業者は約1700万人で、日本全体の労働者の約40%程度だったが、「ユリイカ」で川島雄三特集が組まれた1989年には59%、2020年には74%と増加している[20] 。このような増加した第三次産業就業者、とりわけサービス業就業者の労働について、ホックシールドは1983年に『管理される心』を出版し、社会によって表出する感情を管理させられる「感情労働」の存在を指摘した[21] 。さらに80年代以降日本においては、中曾根内閣や小泉内閣に代表されるような新自由主義的な政策がとられた。この変化を通じて労働者は、規制緩和の名のもとに、個々の労働者の実力で社会を生き抜かなければならなくなった。こうした問題は、現代に至るまで労働者を取り巻いている。『幕末太陽傳』の佐平次は、まさにこれらの問題が表出している遊郭へ適応しているのだ。佐平次は無一文でやってきて、遊郭の最底辺である居残りの身分に置かれるが、自身の器用さ、とりわけ愛想の良さを武器にして遊郭という社会で成り上がっていく。しかし、その「適応」は決して楽なわけではなく、佐平次の心身は疲労していく。単に幕末という変革期に置かれただけでなく、遊郭という新自由主義社会において感情労働を行う、労働者としての「佐平次」像に共感する人々が増加するにつれて、『幕末太陽傳』は日本を代表する映画として評されるようになったのではないか。

 

6. その他の論点
・日活配給の大人気映画でありながら、日活自身は積極的に『幕末太陽傳』を位置付けてはいない。日活五十年、百年を記念して編纂された社史において、『幕末太陽傳』はわずかに登場するか、そもそも言及されていない [22,23]。これは『幕末太陽傳』作成後に川島が日活を辞めたことと無関係ではないだろう。

・内容分析としては、梅本洋一によるもの[24] と大貫徹によるもの [25,26,27] がある。梅本は冒頭の1957年の品川よりも、1862年の品川の方がよりリアルに感じられることに着目している。作品内で佐平次が移動し続けることにより、目的を失い移動のみが成立する近代という<歴史>性を獲得したのだと分析している。一方で大貫は移動そのものに焦点を当て、佐平次自身が終盤で移動に用いるエネルギーが低下することや、高杉晋作などほかのキャラクターの移動の在り方と対比させて論じている。

・花魁同士のキャットファイトのシーンは、工夫を凝らして一本撮りされた。ピンマイクなどなかった時代にあってこれを撮影したスタッフ陣の技術力は非常に高い (らしい) [28]。

立川志らくによれば、立川談志 (「居残り佐平次」は十八番) は「佐平次の余命が幾ばくも無い」という設定が不満だったらしい[29] 。

 

[1] 日活公式サイト『幕末太陽伝』https://www.nikkatsu.com/movie/20196.html

[2] 日活株式会社『日活五十年史』,134.

[3] 佐藤忠男「『幕末太陽傳』デジタル修復版」『月刊シナリオ』2012 (1), 12-13.

[4] 読売新聞, 1957年7月11日

[5] 朝日新聞, 1957年7月12日

[6] 読売新聞, 1957年7月13日

[7]『キネマ旬報』196, 34-41. 

[8] 飯田心美『幕末太陽伝』「キネマ旬報」182, 52-53.

[9] 井沢淳『幕末太陽伝』「キネマ旬報」185, 94. 

[10] 朝日新聞, 1990年12月15日

[11] 毎日新聞, 2012年1月17日

[12] 朝日新聞, 2013年7月5日

[13] 朝日新聞, 2011年12月21日

[14] 朝日新聞, 2020年5月23日

[15] 読売新聞, 1957年6月5日

[16] 川島雄三,岩崎昶,草壁久四郎『川島雄三と喜劇』「中央公論」, 昭和38年7月号 (直接の引用は「ユリイカ」21(4), 52-55.)

[17] フランキー堺古川ロッパから川島雄三まで』「別冊文藝春秋」184特別号 (直接の引用は「ユリイカ」21(4), 168-179.)

[18] フランキー堺川島雄三と戦った日々と工夫の数々』「ユリイカ」21(4),168-179.

[19] 渡辺千明, 藤久ミネ「山内久/玲子 空にまた陽がのぼるとき オーラルヒストリー聞き書き」『月刊シナリオ』2011 (5), 96-107.

[20] 独立行政法人労働政策研究・研修機構産業別就業者数の推移, https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0204.html

[21] Hochschild, R, A. (1983). The managed heart: commercialization of human feeling. The university of California press.

[22] 日活株式会社 (1962).『日活五十年史』.

[23] 日活株式会社 (2012).『日活百年史』.

[24] 梅本洋一『<歴史>を目撃する――『幕末太陽伝』のメカニズム』「ユリイカ」21(4), 84-91.

[25] 大貫徹『作品解釈の試み―川島雄三監督『幕末太陽伝』(1957年) における主題的分析―序論』Litteratura (10), 27-54.

[26] 大貫徹『作品解釈の試み―川島雄三監督『幕末太陽伝』(1957年) の主題論的作品論の試み (1)』Litteratura (12), 69-98.

[27] 大貫徹『作品解釈の試み―川島雄三監督『幕末太陽伝』(1957年) の主題論的作品論の試み (2)』Litteratura (13), 33-55.

[28] 芦川いづみ, 橋本文雄, 川本三郎『16年後の”君美わしく”』「キネマ旬報」1612, 88-97.

[29] 立川志らく「やりやがった!」『キネマ旬報』1602, 76-79.