成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

逃げるたのしみが欲しいなら、罰をもとめなければならない

 安部公房の『砂の女』を読んだ。2,3年前に読もうと思って図書館で借りたのだが、不気味な雰囲気についていけず終いまで読まずに返却してしまい、たまたま最近ブックオフで文庫版が安売りされていたために購入したのだ。

 

 あらすじなどはネットの海にいくらでも落ちているから省略するとして、やはり「自由」ということについて、自分の境遇と照らし合わせて考えないではおれなかった。「男」の教師としての、夫としての日常生活の中で起こる出来事は全く彼の心に響かない。同僚を灰色しか見えないものとして侮蔑し、自らの職業の意味に憤り、妻との関係にも不満足な彼は、いつか自分の名前が残る新種をみつけられるかもしれないという「非日常」を求めて虫取りに興じるわけだが、穴に落ちたことでそれらは一変し、砂を掘るという極めて単調な作業に時間を費やさなければならず、そこからの脱出や、のちにはラジオや溜水装置が生きる希望となる。そして、初期の穴からの脱出は日常への帰還、中期のラジオは日常から脱出、そして最後の場面の溜水装置は日常への残留を示し、逆に選択されなかった縄梯子が日常からの脱出を象徴しているのだ。

 

 最初に掲げられた「罰がなければ、逃げるたのしみもない」という言葉はまさにそれを表している。男は教師生活という罰から逃げるたのしみとして昆虫採集を行ていたわけであるが、穴の中での奇妙な日常生活は男にとって充実したものであり、「罰」として機能していないがために、「逃げるたのしみ」ではなく「居残るたのしみ」が選択されたわけであろう。「自由の不自由性」ということはよく話題になる。週末が楽しく名残惜しいのは平日に労働しているからだし、たまの旅行で開放的な気分になるのは普段の生活が抑制されているからであるし、山頂の景色が美しいのは頑張って山道を登ってきたからである。結局自由を感じるためには、常の状態が不自由である必要があるのだ。

 

 翻って自分の現状を考えると、この「居残るたのしみ」「逃げるたのしみ」が機能不全を起こしているような気がしてならない。私は「逃げるたのしみ」を志向しているが、私の生活はそれほど束縛されているわけではない。文系院生というのは非常に時間の余裕のある生き物である。よって映画や週末の娯楽の中に非日常を追い求めても、なんとなく満たされない気持ちが残る。一方「居残るたのしみ」はどうかというと、日常の研究は目に見えて成果が積みあがっていくというものではなく、さぼってしまうことも往々にしてあるため、一向に改善していかない。

 

 なのでタイトル通り、私に必要なのは罰、つまりは不自由なのだ。新しい娯楽や新しい楽しみを求めるというよりはむしろ、積みあがっていく仕事をこなしていかなければならない不自由さを志向するべきではないか。そして、本来研究というのは自発的な意思に基づく豊かな創造的営みであるにしても、自分の場合にはそうではないのだという自覚をもって、淡々とこなしていく覚悟が必要なのではないかと思った。取り組んでいれば、いつかは「居残るたのしみ」も生まれよう。そして取り組んでいく中で「逃げるたのしみ」を味わうことができよう。そうして初めて、人生というものがより豊かになるような気がする。