成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

Facebookの"English Below"、なぜ腹が立つのか

 個人情報流出で何かと話題のFacebook。そんな大きな現象とは打って変わって、ただ個人的な怒りをぶつけてみたいと思う。

 

 そもそも、表題の"English Below"とは何か。世界的なSNSであるFacebookは、日本ではTwitterとは対照的に、特に若者の間で所謂「リア充SNS」として扱われてきたことは自明であるように思う。勿論近頃はInstagramの方がリア充向けだとか、仕事のやりとりをFacebookで行うだとか、そういう反論は各々が持っているだろう。だがとりあえず最後まで読んでほしい。まだ表題の説明すら途中である。

 Facebookの投稿で、時折"English Below"から始まる投稿を見かけることがある。近況報告などの際に、まず日本語で長文を書いたのち、英訳したものを下に張り付けるものだ。これが無性に私を苛立たせる。何故だろう。

 わざわざ英語と日本語を併記するからには、日本語の読者と英語の読者を想定しているに違いない。つまりフォロワーに日本語が分からない人がいて、その人のためにわざわざ同じ内容を英語を書いてあげているのである。なんと美しい友情か。

 しかしちょっと待ってほしい。日本語で書いた投稿をわざわざ英語で書くのは、多少なりとも手間であったはずである。そこに思いを馳せたとき、私のような捻くれ者は、「オレの/ ボクの/ ワタシの/ 投稿を読んでくれ!! これだけ手間をかけたんだから!」という無言の圧を感じるのである。いや、そもそもお前に興味がない。成り行きでフォローしただけだから。

 さらに言えば、「いや~つらいわ、SNSですら二か国語で書かないといけない自分国際的過ぎてつれ~わ~~」という「できる子アピール」のような要素も多分に感じる。SNSを使う理由は多種多様であろうし、そこに文句をつける気はないが、風雲ふぇいすぶっく城であれば「こんな めでぃあに まじになっちゃって どうするの」と言われること請け合いである。

 システム的なことを言えば、今ではなかなか優秀な翻訳システムがボタン一つで使えるし、記事を英語と日本語で二度投稿すれば済む話でもある。なぜ併記する。

 

 もちろんこんなものはただの僻みである。グループ旅行で海に行った時の写真に延々難癖をつけるような虚しい作業に他ならない。しかしメッセージというものは伝える相手がいるはずであって、その相手がどう受け取るかということを考えて発信するのが良いメッセージという者であろう。「空気を読めないことは問題」「SNSはマウンティングのツールだ」と言われるこの社会で、"English Below"がどういう風に見られるかということに関して考えもつかないというのは、やはり良いとは言えないのではないだろうか。もちろん今の社会の態度を全肯定するわけでもないが。