成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

留学について 〜意識の低い留学考〜.

 まず、かなり更新が空いてしまったことに対して反省しなければならない。忙しさにかこつけてなかなかブログを書くまでに至らなかった。しかし今回のように何か思うことがあれば筆を取る (慣用句として) 以上、特に事件の起こらない平和を謳歌していたということかもしれない。

 

 閑話休題。先日交換留学先のヨーロッパの大学から連絡があり、少なくとも10ヶ月間の海外派遣が決定した。大学の海外研修のようなものに2,3度参加してはいたものの、長期滞在 (1年が長期滞在かどうかは議論の余地があろうが) は初めてであり、何がどうなるか全く不明で、楽しみでもある。

 なぜ留学するのか、ということは色々な提出先に色々な形式で散々書いたが、それらは正直なところ「綺麗事」であり、いくつかの面では自分の考えを反映しているところもあるが、全く誇張しきったものも多い。よって本稿では「リアルな理由を書いてみたい。「そんな理由でお前は留学するのか」とお叱りを受けるかもしれないが、「そんな理由でも留学してもいいんだ」と人を励ますことができれば幸いである。

 

①.なんとなくヨーロッパが楽しかった

 今まで参加した研修はヨーロッパとアジアが中心のもので、個人的にヨーロッパのゴシックやバロックの建築群に憧れていたということもあり、どちらかといえばヨーロッパでできた友人やら経験がかなり印象的だった。よってもっと長い期間ここで過ごせばもっと色々な経験ができるのではないかと思った。

 

②.将来像が見えない

 私ももう3年生であって、一般に言って進路を考える時期である。ここでいう進路は就職先のことであって、就活は一部の人にとっては卒業から定年までお世話になる先を選ぶ行為である。ただ、「この企業や業種」というところで、今いちピンと来ないままここまで来てしまった。院進という選択肢もあるが、そうすると今度は金銭的な負担という問題が浮上する。他の選択肢はなかなかリスクを伴うように思えるし、情報も集まりにくい……という中で、もう少し考える時間が欲しいなと思った。

 

③.「自分、日本以外で生きていける?」

 「やっぱり日本が一番だよね」という言葉をたまに聞く。それは日本に一般化できることではなくせいぜい東京23区か大都市くらいまでにしか一般化できないだろうと思ってしまうようなことも少なくはないが、今の自分の環境は生きにくい部分もあるが生きやすい部分もある。だが、自分にとってより良い環境というものは存在するかもしれないし、海外は全くクソのように住みにくいかもしれない。試しても見ないうちから断定するのは良くない傾向だと思う。将来何があるかがわからないのだから、違う場所に住んでみるというのも必ずいい経験であろう。

 

④.謎の「効率主義」への反発

 私の知り合いの1人が「僕の夢にはこれが一番効率がいいんだ」という発言をしたことがある。

 私は彼ではないし、彼の事情も全て了解している訳では無いが、その言葉に大きな違和感を覚えた。これは「夢」というものの定義の差であるのかもしれないが、少なくとも私にとって「人生」というものは特定の地点に立ってはい終わり、というものではない。過去から連続する流時間の流れがあって、その時々で行きたい方、やりたい方へ進んでいくというイメージであり、特定の地点を目指すとしても、その先々で何があるかなど分からないし、仮に辿り着かなくても、その過程で体験した色々な人、もの、出来事に意味があるものである。なので他者の人生は仮に同じ職業に就いていたり活動に参加していたとしても、そこに至るまでには別の道を歩んでおり、それこそが彼を彼たらしめている。

 ところが、「効率」を考えるとき、重要なのは到達点のみであり、過程は全て捨象されてしまっている。さらに「効率的な」将来像は現在の自分と未来の自分の一貫性を前提としており、極めて脆い土台の上に高い塔を建てようとするような行為ではないかと思う。

 また詭弁と言われても仕方がないが、10年後、30年後、50年後がどうなっているかなど誰にもわからない。AIに関する話が今話題であるが、この国は100年前には植民地を抱えていたし、50年前にはマルクス主義が学生のバイブルだった。こうした社会環境の中で、「正しい」ことは様々に移り変わってきた。 当然、いま私の周りにも「正しい」ことは溢れかえっている。それは「いい会社」に入ることであったり、アメリカで「意味のある」留学をしてくることであったり様々だが、そういうものがいつまでも「正しい」とは限らない。

 もちろん、その「正しさ」に反抗するのは並大抵の度胸ではできない。友人ができない。恋人ができない。親に流れる。金がなくなる。そういうリスクのある選択肢を取れるならば余程の阿呆か英雄だろう。私にそこまでの勇気はない。だからこそ、学部留学ではなく交換留学という形を選んだ (海外の大学に進学するなど高校生の時は考えもしなかったので、選んだわけではないが) 。

 

⑤.英語中心主義への反発

言葉の問題があるのは仕方ないことで、正直英語がネイティブのようにできるわけではない。しかしながら、英語はアカデミアの共通語であっても世界共通語ではないのだ。アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダ・ニュージーランドへ留学して「世界を見てきましたが日本は遅れてる!」みたいなことを言う輩にはなりたくなかった  (上記は交換留学でも非常に人気なので競争率が高く応募を見送った僻みも十二分に含まれている) 。

 

だいたい以上のような理由が挙げられる。またこのテーマでまた機会があったら書きたいが、巷に溢れている留学体験記はどうにも意識が高いというか、眩し過ぎていけないと思う。「絶対○○をする為に留学しました!」とか、「留学をして身についた○○のこと」とか、絶対何か目的がないといけない、絶対何か身につけないといけないというのは、例えば奨学金を出す側は気にするべきことだが、する側としてそこまで志高くある必要はないのではないか。「バイトはじめるかぁ」のノリで「留学でもしてみるかぁ」と言う人口が増えて初めて、留学が身近になったと言えるのではないか。