成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

その一つ一つが ほら僕らの未来作ってる

 なんてキレイな話ではないが。

 

 過去とは切っても切り離せないものである。私の認知の中では選択的な記憶がなされ、常に統一的な自己と過去が形成されている。おそらく君のインタープリターも同じことをしている。しかしそんなものはまやかしなのだ。私は記憶の中ではキリストも頭を垂れるような聖人であるし、時々の失敗も結果オーライに落ち着いている。そんなことはないにも関わらず、である。

 

 ある意味で他者の指摘は自分の自己像より正しい。特に複数の他者からもたらされた情報がある一つの行動指標、つまり性格特性に集約されるなら、私自身の過去の記憶よりもその時の私のパーソナリティを端的に示しているのだろう。

 

 私は筋金入りの権威主義者だ。強者に諂い弱者を見下す、世が世なら積極的に列島民族の家に石を投げ込むくらいはやってのけただろう。しかしあまりにも権威主義を標榜するがゆえに、自分が権威の側にいないときには絶えず心の中でその権威を貶めんと詭弁を量産してきた。中には的を射ているものもあろうが、まさしく下手な鉄砲のそれである。しかしことここにきて、権威というものが時代的にも人生的にもどこかへ行ってしまった。寺から仏像が消えたら大騒ぎになるように、まさに私の頭の中も驚天動地の大騒ぎである。とりあえず海外を旗頭に結集を促したものの、やはり孔子像では寺院とはいえない。せいぜい忠孝の教えを流用する程度のことしかできない。

 

 今こそ権威主義から逃れるべき時なのだろうか。大学に中指を突き立て、旧友に砂を浴びせかけ、蔵書を窓から放り投げる。そういうことができるのは今しかないのかもしれない。しかしそれは洗脳でもされない限り、蛙に空を飛べというくらい難しい。

 

 昔を美化するというのは、今を生きる人間に許された数少ない権利の一つなのではないだろうか。「今までのわたし」をなんとなくいいものとして解釈できれば、その延長線上の「わたし」も肯定されようというものである。しかしその前提条件に疑いを立ててしまえば、後に残るのは「今までも今もおそらくこれからも正しくないわたし」である。そんなに救いのない認知がこの世にあるか。

 

 結局昔も今も権威主義、それだけの話なのだ。ここまでしみ込んだ考え方はもはやせいぞーん、せんりゃくーなのであって、並大抵のことでは覆らない。権威に逆らう奴は粛清されるべき、俺が肯定されない権威は消滅するべき、そういう矛盾を孕んだ認識をもって生きていくしかない。それはクズと呼ばれて然るべき人間だし、クズという名を甘んじて受け入れてやろう。それがせめてもの罪滅ぼしをしないという贖罪。ということにはしてもらえませんかね。してもらえませんよね。