成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

PULVIS ET UMBRA SUMUS

 大学からの「友人」との飲み会であった。

 

 某省への入省に熱い彼、某士業に就こうと頑張っている彼は、正直己にいっぱいいっぱいで、他人のことなど気にする余裕がないといった有様だった。それは正直私も同じである。結局彼らは私がどこに留学するかすら言えないし、私は彼らの志望企業すら言えない。そんなことのために数千円を投げ打つのは馬鹿馬鹿しいことのような気もするが、そもそも大学に入ってその程度の友人しか作れなかった私の身から出た錆ともいえる。まったく悲しい限りだ。

 

 しかし、それでは友情とは一体何であろうか。話をしたところでさして新しい知見が生まれるわけでもない。自分の意見が変わるわけでもない。せいぜいがマウンティングの取り合いで、その場に集まった中でのボスチンパンジーの自覚を強めるくらいが関の山であるが、一時的な集団の中で上位に立とうが何の意味もない。人は大抵自分の話をしたがるし、他人の話を聞きたがらない。それは社会性の発露ともいえようが、私はすっかり対話場面での意見の表明の仕方を忘れてしまった気がする。その代償としてこうして文字でマスターベーション的に解決しようというのだから度し難い話である。

 

 恋人、収入、学業、将来……ありとあらゆるものが俎上に上るが、結局のところマウンティングのために用いられる。しかしマウンティングが可能ということは多少なりとも同じ「何か」を共有しているという認識があるためで、それはむしろされたと感じる側、つまり私の方の感性に原因があるのだろう。彼らが背負っているものと、私のそれは全然違うものだ。たまたま同じ大学の同じ学年だったというだけで、それ以外に同じものなど何一つとしてない。尺度は無限にあるし、そのうちの一つを採用するのはまだしも、他者をそれで評価しようとするのは誤りなのだ。とはいえ、今まで他者からの評価によって自己を形成してきたために、他者からの評価には非常に敏感になってしまう。

 

 結局、他者と比較をしてなにかを測ろうとするのは誤りなのだ。平均以下の身長だろうが平均以上の体重だろうが、Aさんより収入が少なかろうがBさんより恋愛経験が多いとかそういうことではなく、大事なのはそれらを総合した個人が何を考えてどうするかであって、人のことなどどうでもよいのだ。そうだとするなら、友人と、他人と、いったい何の話をしよう。話すことも話さないことも同じことなのだ。今の私は盲人よりも盲目であろう。