成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

私が心理を勉強したわけ(後付けマシマシ)

 今日、面と向かって「心理なんか勉強しても……『だから?』って感じ?」と言われて、少しショックに思ったのは我ながら驚きであった。そこで、自省の意味も兼ねて、少し表題のようなことを投稿してみようと思う。

 

 そもそも、それほど心理学というものに興味はなかった。1年生の時に授業は履修したものの、何やらモノの見え方聞こえ方とかばかりで、理系っぽくて面白くないなぁと思ったことを覚えている。当時の私は経済を学びたい駆け出し大学生で、社会の仕組みとか構造とかを勉強したり研究できたりできたら面白いなぁということをなんとなく考えていた。

 

 専攻を選ぶ段になって、経済学、政治学社会学社会心理学、心理学で迷った(ちなみに考古にも興味があって、優先順位は政治学より高いくらいだったのだが、就職しにくいかもと思って立ち止まってしまい、それで立ち止まるくらいであれば一生の仕事にはできんだろうと思って止めた)。何となく社会学>社会心理>政治>経済>心理 みたいな感じだったのだが、当時本気で嫌っていた相手が社会学を専攻するという噂を耳にしたこと、また社会心理は少人数で学問的にも人間関係的にもよいという噂を聞いたことで、社会心理を先行するに至った。ここまで学問的でない理由で選考を選ぶ人間も珍しかろう。しかし当時は就職する気が大いにあり、また「修士まで行かないとその学問を修めたとはいえない」というアドバイスと混ざり合った結果、「じゃあどうせ学べるのは知識だけだし、研究しないなら社会心理の知識が欲しいかも」くらいの軽い気持ちで専攻に決めてしまった。もし昔から学問に向き合っていて、かつ計量経済学とかに出会っていたら、また違ったことを考えていたかもしれない。

 

 専攻が決まってから実際にそれに即した授業が始まると、大きく2つのタイプの授業を受けることになった。1つは社会心理とその周辺分野の知識を学ぶ授業で、もう1つは研究者の卵を育成するための授業であった。後者の授業は確かに大変だったが、それでも予想よりは易しく、こういうことをして生きていってもまあ大丈夫かと思わせるきっかけになった要素が強いように思う。問題はむしろ後者で、心理学はその歴史上、「科学」であることを強調する傾向にあり、それが非常に腹立たしかった時期があった。なぜならば、方法論と結論の両方に欠陥があり、方法論は実験やら調査票配布を行って得られた結果を統計で分析するだけであるし、またその結論は例えば「人は集団に逆らえない」といったある種社会通念として存在することの焼き直しのようなものが多い。「こんなことやっててもしょうがないのでは?」という疑問がふと頭によぎることもあった。

 

 当初は、その疑似科学性を質的研究によって乗り越えられるのではないかと考えていた。「科学」から「社会科学」へ移行すればより意義深く、それぞれの社会状況の中の人々の心理に寄り添えるであろうと。だから社会学の中でも文化人類学系の授業にも出た。しかし、そういう方面について考えれば考えるほど、「社会」を研究することの難しさに突き当たることとなった。研究者の主観やイデオロギーによって「社会」は全く形を変えてしまうのである。私にはそれを学んだり研究したりできるような自信は終ぞ生まれなかったし、その「社会」の中での人間の行動を分析していながら、それほどその「社会」研究の難しさに自覚的でない(ように見える)社会心理的研究によけいに腹を立てたりもした。これは私が初めて考えたことでもないし、最近考え始めたことであるが、やはり社会心理学的研究の多くはアメリカ的白人社会、近代資本主義的社会の中にいる人間の考えをトレースしているだけのような気がする。もちろん我々がその内側にいる以上それを研究することに意味はあるのだが、それを「科学」という不変の真理のような顔をして語るような人間にはなりたくないなと、少なくとも今は考えている。ともかく、社会心理学は、現実の社会問題を解決するような学問分野ではないし、かといって人間不変の原則を探求しているわけでもない。そういう点で、学問的に意味のある分野とも思えないような気がしてきたのだ。むろん傍らでずっと「社会心理って何の意味があるの???」と言ってきた某友人の影響は否めないが。

 

 さて、そんなわけで社会心理的なことを学びながら社会心理に嫌気がさしてきた私だが、前述の記事でも紹介した通り、「シュタインズ・ゲート・ゼロ」というアニメをひょんなことから見ることになった。そのアニメの主要キャラクターに脳科学研究所に勤務する人物がおり、「記憶はデータ化可能」というその人物の研究結果から、作中では意思疎通が可能なAIの開発に成功するのである。また、そのアニメ「科学者」という言葉がキーワードになっており、「真理の探究を真摯に行う」という理想像が共有されているのだ。このアニメを見て、「どうせ科学というなら、これくらいの『真理』性を持ちたいものだ」と思ったのである。また、脳科学は最近心理学を取り込みつつあるし、自意識を含めた人間のあらゆる思考や感情が脳から生じるのであれば、それを研究した方が楽しいのではないかという感情が突如沸き起こったのである。

 

 端的に言えば、脳科学系の研究者に憧れたのだ。以降その憧れを引きずっており、留学を始めた今もそのままである。なので、社会心理に対するモヤモヤ感は消えたわけではないが、少なくとも認知的アプローチには意味があるのではということを考える程度に視野が広がった(ずれた)のである。ただ、現状唯の憧れの域を出ず、もっと勉強しなければと思っている間に留学が始まってしまった。留学は一連の学問的煩悶とは別の文脈で生じたもので、機会があればまた長々と書いてみたい。

 

 現時点での理解であるから、もっと低俗な理由で選んだことにもっともらしく後付けをしている感は否めない(これ社会心理でやったところだ!)。故圓歌師匠の落語のようなものである。ともかく、「心理学」という分野に首を突っ込んだのはたまたまであるし、そこから認知・知覚系に流れ着いたのもたまたまである。だから冒頭の「心理なんか勉強しても……『だから?』って感じ?」という発言には半ば同意しつつも、「でも心理学も広いし、中には意味のあるものもあるよ」という曖昧な発言しか返すことができない。今は、もっと知識が増えればやりたいことも定まってくるであろうと楽観的に考えるしかできないのが現状である。また、前述の問題点に、社会心理の内外から挑戦しているものも多くある、それはベイズ統計であったり、文化心理学だったり、社会生態学だったり、認知脳科学だったりするわけであるが、それらを勉強する時間も取れたらなぁというのが正直なところである。しかしこれでは、目の前の目的があっても長期的な目標がないに等しい。強いて挙げるとすれば、「アマデウスつくりたい」くらいだろうか。でも社会心理となんら関係ねぇんだよな……