成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

「陽菜」のいない世界で今日も俺は生きている

「天気の子」を見てきた。号泣してしまった。以下はネタバレとヒネクレである。

 

 

 

 モノローグから考えるに、帆高の家出の理由は思春期にありがちな、「とにかくここ (実家のある島) に居たくない」という気持ちであろうと思われる。地元に蔓延するなんとなくの息苦しさに耐えきれなくなった末に、カネもコネもなく東京へ出てこようとするあたり、若さに身を任せた暴走といえる。

 

 保護者になった圭介はそういった若さゆえの暴走に寛容であり、事情もよく聞かずに仕事を与えたりする。それは帆高に実際に若い頃の自分を重ねていたこともあろう。自分のできる範囲での協力はする一方で、警察沙汰になった時には罪悪感は感じながらも我が身を優先する。そこにはちょっと優しい「大人」としての正しい姿がある。

 

そうした大人の優しさに支えられていた帆高だが、複雑な事情を抱えた陽菜 (と凪) を支えようとしたことで暴走していく。当たり前である。自分一人のことも満足にできない若者が、人の人生を背負えるわけはないのだ。刑事のセリフにもあるが、たしかに帆高は人生を棒に振った。拳銃も発砲したし、警察から幾度となく逃亡する。保護観察処分となっては、おそらく「まともな」人生は歩めまい。

 

 

 しかし、帆高は陽菜と出会ったのだ。

 

 帆高にとって陽菜は、16年という短い人生の中で、おそらく初めて出会った命を懸けるに値する他者なのだ。帆高にとってそれは何よりも価値のあるものだからこそ、たとえ東京が水の底に沈もうが、自分の人生が滅茶苦茶になろうが知ったことではない。傍らに陽菜がいることが何よりも重要なのだから。そこにはためらいも、葛藤もない。

 

 むしろ葛藤するのは保護者である圭介である。帆高と違い彼は「大人」である。仕事があって、娘も引き取るという目標もある。飄々としていながらも、背負うものはきちんとあって、それは本人のセリフからも垣間見ることができる。「大人」として帆高への責任も果たそうとしているが、彼が「大人」の領分を超えて帆高に肩入れしてしまうのは、彼妻、圭介にとっての「陽菜」を理不尽に奪われたという経験があるからである。

 

だからこそ、圭介が刑事に組みかかるときに発する「お前らが帆高に触んじゃねぇ!」というセリフには心を打つものがある。あの瞬間、圭介にとって刑事は「陽菜」を奪った世界の理不尽そのものなのだ。その理不尽に立ち向かうために、圭介は「大人」であることをかなぐり捨てる。

 

  「天気の子」は、帆高と陽菜のどこまでもひたむきな純愛の物語であり、また圭介が、「陽菜」を奪われた「帆高」として、青年と大人の間を揺れ動く物語でもある。感動する作品なので、ぜひ劇場に足を運ぶべきだ。しかし話はこれで終わらない。

 

 

 エンディングロールが終わって、感動的な物語から現実に引き戻されたとき、私はある事実に気づかないではおれなかった。つまり、まったく残念なことだが、論理的に考えて、私には「陽菜」がいないということである。

 

 およそ人として生まれて二十と数年、陽菜のような人に巡り会えなかったことは悲しい事実だが、まあ仕方のないことである。身を焦がすような熱愛をしてみたいという気持ちもないではないがしかし、私が問題としているのは愛情に限った話ではない。 およそそれのためなら全てを投げ打っても構わないという人、物、事……そういった「陽菜」はいない一方で、日々ちょっとした幸せがあり、「青空」が広がる世界に私は生きている。

 

 青空を見るだけで人はなぜだか幸せになれる、とは中盤の帆高の台詞である。人はパンだけでは生きていけないかもしれないが、日々の「青空」があれば生きていけるのだ。

 

だが、そう言っていた帆高は青空を選んだだろうか? 「世界のあり方を根本から変える」選択を迫られた帆高は、「青空」より「陽菜」を選んだ上で「俺はここで生きていくんだ」という力強い肯定で締めくくっている。なんてこったい。「陽菜」マウンティングはやめてくれ。私に「陽菜」はいないんだ。それでも「青空」を見上げて日々頑張って生きているんだ。

 

 圭介はどうだろう。たしかに妻を亡くしてからは燻っている雰囲気だったが、娘がいる。だからこそ3年後のシーンでは見事に事務所を立て直していたではないか。彼の生き方にもやはり「陽菜」の影響がある。

 

「陽菜」を選ばないというのは「大人」になるということだ。逆に「青年」ならば「陽菜」を選ぶこともできる。しかし私の青年期は、「陽菜」に出会うことなく終わろうとしている。もはや若さに任せて家出する度胸はない。しかし、また「陽菜」に出会うことなく、「青空」を拠り所に「大人」になることの恐ろしさも感じる。たしかに晴れ間があるうちはいいだろう。 だが雨になったら? 嵐が過ぎ去らなかったら? 不安が止むことはない。

 

 空から女の子が降ってくることはないし、女の子が空へ連れ去られることもない。全てよし、かくあれかし。そうして晴れたり曇ったりする空の下で今日も、私は鏡の中に「島で大人になった帆高」を見つけるのである。