成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

D'où viens-je ? Que suis-je ? Où ai-je ?

 今年もいよいよ熱くなってきた。梅雨が長いから今年は冷夏~~などという話を小耳にはさんだ気がするが、東京は今年早速の猛暑日である。勘弁願いたいところだ。

 

 さて、「天気の子」の感想を除けば今月の頭に一度更新したきりであったが、今月かなり紆余曲折あって、来年は京都に進学するか北欧に戻るかの2択になりそうだ。東京にどうにも居られなさそうだと分かった時には多少ショックを受けたのだが、考えてみればこれも道理の通らない話である。上京したのもつい3年半前で、半年前には異国の地にいたのだし、私自身東京という土地自体に愛着のないことは明々白々である。

 

 であれば、何故「東京を離れなければならない」ということになんとなく寂しさを抱いたのか。思うに東京時代というものが私の青年期の始まりと同時だったからのように思う。上京する人間は皆大なり小なり何かを期待してやってくるであろう。私もご多分に漏れずそのクチで、なんとなくの期待感を持って大都会トーキョーの門を叩いたのだ。それが「都落ち」 (京都に進学すればこれはこれで「上京」だと思うが) したとなれば、その漠然とした期待感は消え失せ、夢持たぬまま夢破れた少年のような気持になるのも無理からぬ話である、と自分に優しい言葉をかけてみる。

 

 とはいえ実際にはやりたいことが見つかって、よりそちら方面の研究ができそうな処へ行くのだから、夢破れたどころか始まってもいないのだ。フラフラしていて大丈夫? と他人に言われたり自分でも思ったりすることはあるが、ようはフラフラしながらも生きていけるだけの実力を都度つけていけばよい。勿論、打ち込みたい/むべきものが見つかればいつでものめりこめばいいのだし、人生にしがらみもなく出世も金も望まないなら、大事なのはやりたいと思ったことをやることなのではないかと思う。目下卒論執筆も怪しい我が身ではあるが、人生気負わず行くというのが一番かもしれない。それが私なりの狂気である。

 

 

 最近、5代目古今亭志ん生「なめくじ艦隊」を読んで、なるほどそういう生き方があるのかと思わされることがあった。この人の場合は生き方というよりもなんとか生きてきたという感じが強いのだが、極貧にあえいでなお酒を飲んで憚らない姿勢には江戸っ子というべきか、ある種の潔ささえ感じさせる。本人の語りを信じるならば、この人は若い頃に遊びに遊んでいくところがなくなったあげく芸の世界に入り、酒を飲みながら芸に向き合って、果ては大名人となった。「なめくじのように世の中をヌラリクラリと渡ってきた」と言うからには、やはり相当の苦労があったのだろうと思う。到底世間に顔向けできない、と端から見ていて思うようなことでも、当人はどこふく風というありさまで、これはこれで君子のあるべき姿なのではあるまいか。まあ彼の場合には少し酒は控えたほうがよかったのであろうが。