成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

必要なのは狂気かもしれない

 普通に生きることが難しい時代である。景気は回復してるのか怪しいし、ジャパン・アズ・ナンバーワンなんて40年も前の話だし、年寄りは増えるし、若者は選挙に行かないし、ブラック企業は無くならないし、AIなんてわけのわからないものが出てくるし、自然災害は多いし、地方にカネはないし、移民は増えるし、テロは起こるしで、全くロクでもない時代である。そんな中で、普通に生きることが難しいということがよく言われる。大学に行かないなんて普通じゃない、就活しないなんて普通じゃない、給料が足りないから普通じゃない、忙しすぎて普通じゃない、恋人がいなくて普通じゃない、35までに結婚しないなんて普通じゃない、40過ぎて子どもがいないなんて普通じゃない。ありとあらゆる「普通」の定義が世の中には溢れているが、その中から自分に合う/合わない定義を見つけてきては、安心する/不安になるのが関の山である。しかし、全く知らない、世の中にたくさん蠢く人の平均が「普通」なのだ。しかし世の中は多様である。数値化できるデータを持ってきて単純に割り算をして、それと自分を比べて何かいいことはあるだろうか? 全くない。そんなことはわかりきっている。

 

 しかし世の中の漠然とした「普通」をやり過ごしたとしても、自分の周囲の「普通」が襲ってくる。そんなところへ行くなんてありえない、何を考えてるんだ。周囲と同じように生きたいと、想像以上に強く思っている自分に驚かされもする。周囲の人は周囲の人なりの考えがあって、その選択をしたのだろう。でも自分には考えていることがあって、こうするのが良いであろうという考えがあって、こうしたいという希望がある。そのうちのどれかが、あるいは全てが周囲と衝突する。いや実際に真正面からぶつからなくても、なんとなくぶつかりそうな進路を取っている。「船長、このままでは正面衝突です!」と頭の中でクルーが喚きたてる。わかってる。衝突して死ぬのはまっぴらだ。自分が折れるのが最も楽だし、周囲の船があまりにもそういう選択をしているものだから、「面舵いっぱーい!」と叫ぶ準備をする。しかし、そうして衝突を回避していったい何があるのか。周囲の「普通」は私が感じるもので、だれが保証してくれるものでもない。結局のところどこかで座礁して、責任問題になった時、そこでやり玉に挙げられるのはやはり船長たる私である。うーん困った。進むも地獄、引くも地獄とはこのことである。

 

 自分の船に自信があればまた違うだろう。最新鋭のエンジンを積んでたり、頑丈な材料でできていたりするなら、衝突したところで力業で相手の船を沈めることもできよう。あいにくと、私の船はそんなに特殊じゃないんです。エンジンも建材も、型番すらわからないんです。そうしたときにどうするか。そこで狂気がオン・ステージである。「衝突しますよ!」はぁ。「沈みますよ!」ふーん。「乗客の命が!」あっそう。衝突して、船が沈むことが予想されても、「おお沈んどるわ」くらいの感覚で居られる狂気を養うことが重要な気がする。

 

 船のたとえがいまいち内容を分かりにくくしてしまった。要するに、人と違うことをすることはその先に生存できる環境があるのかのリスクが大きいし、その過程で周囲の人間と衝突するリスクもあるのだ。しかしそれでも、自分がその行動の妥当性を疑えないのであれば、たとえ賛同者が一人もいなくとも実行するべきであろう。それを実行するのに、少なくとも私のような矮小な存在ではとても素面でできそうにない。それを可能にするのが「狂気」という精神状態なのではないかと私には思われるのだ。いろんな「普通」に中指を立てて、普通に幸せな将来をどぶに捨てて、誰も理解してくれずとも自分に対する絶対的な信念を持ち続ける狂気が、今の私に必要なもののようだ。