成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

クソみたいな卒論を書いている私から未来の私へ

 タイトル通り、これは私自身へあてたメッセージです。

 

 さて、現状私は卒論を書くための実験にようやく着手しようとしたところですが、まったくやる気になりません。実験のための倫理審査の書類も書きあがらず、ワードを開いたり閉じたりして無意味な時間を過ごしています。それというのも、このまま書き進めて出来上がるであろう「卒業論文」というもの――私自身は「便所の落書き」とでも呼びたいですが――の出来が、あまりにもお粗末になることが自明だからです。

 

 正直なところ、私は今まで他人の卒論話を聞いていて、なぜそんなに大変という話になるのか全く分かりませんでした。1年という時間があって、指導を受けながら論文を書くのだから、卒論にやる気がなければサッサと終わらせればいいし、やる気があるならしっかりと取り組めば、スケジュール的には余裕をもって終わらせることができるだろうと。しかし、現実はそう甘くなかったのです。今や、私は今年の終わりになにか文章を書きあげるために、なんのパイロットテストもせず、なんの学術的意義も見いだせない調査を、恐れ多くも卒業論文、学術研究などとのたまって遂行しようとしています。

 

 どうしてこうなったのか? 理由はいくつか挙げることができます。急な帰国で3年秋は卒論についてまったく考えていなかったこと、4月から取り組んできて、全く具体化しないまま夏休みに突入したこと、指導教員があまり協力的でなかったこと……それらが全て複雑に絡み合い、テキトーな仮説をテキトーな調査計画の組み合わせが完成しつつあります。

 

 私としては指導教員の指導方法に文句をつけたいところですけれども、それも振り返ってみれば、さして人柄を知らない研究室を選んでしまったこととして反省すべきでしょう。研究というものは、少なくとも私の分野においては、研究室一丸となって取り組むものではなく、個々人として取り組むべきものですから、己を燈明として進むしかないのです。先達からのアドバイスは非常に貴重であるとはいえ、それに流されていては研究は進みません。その点では、むしろ甘えるような姿勢で意見など求めるべきではないのです。もちろんこの半年強、人の言葉に振り回されたおかげで、自分では読まなかったであろう文献、先行研究に触れることができたのは事実ですが、それが研究として形にならないというのであれば全く意味のないことです。自ら研究もし、幅広い知識も自発的に身に着けるというのがあるべき姿ではないでしょうか。

 

 研究という枠を離れて人生一般を考えたときにも、この半年の出来事は象徴的だったと思います。大局的にどうなるかわからないまま、目先の物事がうまくいかず立ち往生する、師となる人からの助言を期待して他人の判断に流されるということを繰り返すのは非常につらく苦しい期間でありました。一生のうち、なるべくこのような時期は少なくあってほしいものです。自分を頼りにして進むしかないのだということを強く思い知らされました。

 

 私はこのままこのクソみたいな卒論を書き上げます。余りにもクソのため、10人中8人が声を上げて罵り、残り二人は卒倒するようなものが出来上がるでしょう。しかし私はそれでも良いと思います。こうなってしまったものは仕方がない、そういう気持ちで行こうと思います。いつかあなたが今を振り返り、「あれも成長のきっかけだったよ」と言えるようであれば、多少は救いがあるのかもしれません。ですが、そうでなくとも、2度と思い出したくない記憶となっても、これだけ苦労したことを忘れてほしくないのです。

 

 あなたの幸せを心からお祈り申し上げます。

 

 

趣味考

 最近人生迷走している投稿ばかりしていたので、少し雑談的な話しようと思う。夏休みに入って勉強しなければならないといいつつ、やはり膨大にある暇な時間をどう過ごすかというのが課題となっている。勉強をするためにも、やはりオンオフの切り替えは重要であろう。よって今回は趣味というものを考えてみたい。

 

 趣味というのは一日の間で仕事と生活に必要な時間を除いた時間、つまり余暇に何をするのかということで、近代以降人々の暮らしの中で大きな問題になっている。「趣味のない人」というのはどことなく寂しい人のように思われるし、趣味に生きる「道楽者」は、呆れられながらもどこか尊敬のまなざしで見られる。別段人に受けるために趣味を持つわけではないのだが、余暇をどう消費していくかということは、近代に生きる人間が直面する問題であるので、私にとっても解決しなければならない問題であるわけだ。

 

 余暇には平日と休日の2種類があるので、趣味も2種類持っておいたほうがよいだろう。すなわち、30分から数時間でできる平日用の娯楽と、数時間から1日、あるいはそれ以上かけて行われる休日用の娯楽である。人によっては平日用の娯楽の積み重ねで休日を潰す人もいるだろうが、それほど熱中できるのはむしろ稀であろう。例えば映画を見るのが趣味だったとしても、休日を1日潰して名作を5本鑑賞……というのは「道楽者」レベルにならなければ難しい。

 

 ここに第二点目として気にするべき要素が含まれている。それは趣味の「健全性」である。いかに自分が熱中できるからといって、犯罪行為や心身を害することを趣味としてはならない。可能であれば心や体を豊かにするもの、それができなくともせめてイーブンなものを趣味とするべきであろう。またインドアな趣味とアウトドアな趣味を併せ持つ事も望ましい。

 

 時間的制限のほかにも趣味を制限するものとして、金銭的事情が存在する。「趣味の金に糸目をつけないのがオタク」という言説を耳にしたことがあるが、そうして家財を全て趣味へ向けてしまっては、上に示した「健全性」の原則に反する。もちろんそれだけ熱中できることがあるということそれ自体は素晴らしいが、趣味が余暇の中に置かれている以上、仕事や生活を時間的にも金銭的にも浸食すべきでないことは明らかである。

 

 以上の前提に立って、趣味となりうるものを考察してみる。とはいえ、あくまで私にとっての趣味となりうることであるので、全く一般化できるものではない。まずは今やっていることを挙げる。

 

・映像鑑賞……平日/インドア

 映画鑑賞やアニメ鑑賞などをまとめて映像鑑賞とした。映画館に見に行くにしても自宅で見るにしても、最長2,3時間なので平日にやることが可能である。

 

・読書……平日/インドア

 本さえあればどこでもできるのが良いところでもあり、悪いところでもある。私なぞは面白い本に出合うと読み終わるまで止まらないということもあり、そうしたときには映像作品と違って読破に数時間から数日かかることが却って問題となる。

 

・旅行……休日/アウトドア

 日帰りにしても泊りがけにしても、かなりの時間を必要とする。問題は金銭がかかりすぎる場合があることで、どう節約するかが課題となる。

 

・友人との会合……休日/インドア

 平日に開催されることもあるが、往々にして予定より長くなることが多い。また費用もかかるときはかかる。

 

・散歩……平日/アウトドア

 費用もかからず時間も自分で決められるが、天気に左右されるところが難点でもある。

 

 こうしてみると、休日にできるインドアな趣味が何かあればよいのだろうが、休日こそ外にでるべきだと感じるのは、やはり平日に屋内にいることが多いからであろうか。ということは平日にできるアウトドアの趣味を何か考えてみてもいいかもしれない。考えたところ、いくつかのことに新しく手を出してみるという案が生まれた。

 

・筋トレ&スイミング……平日/アウトドア

 ジムは完全に屋内なのだが、さりとて体を動かすというのがアウトドア趣味の肝でもあるため分類上はアウトドアとした。ジムは仕事として分類していたが、趣味のカテゴリに入れて考えてもいいのかもしれない。

 

・釣り……休日/アウトドア

 前々から興味はあるのだが、如何せん機材と場所の関係でまだ行けていない。 「一生幸福でいたかったら釣りを覚えよ」という中国の諺もあるくらいだから、きっと面白いとは思うのであるが。

 

・ハイキング……休日/アウトドア

 これも暫く行っていない。この季節に山に登るならそれ相応の装備が必要なのだが、初期投資がかかるという理由で手を出せていないのだ。

 

・サイクリング……休日/アウトドア

 ハイキングと同じ理由で実行ならず。

 

・作品制作……休日/インドア

 前々からやってみたいと思っているのがこれである。小説でも絵でも、かくにはそれなりにまとまった時間が必要で、それを成しうるのはやはり休日だろう。何度か思い立ってさわりだけ行うのだが、どこかで匙を投げるということを繰り返してきた。

 

・美術館/博物館/水族館/動物園……休日/インドア

 東京にはありとあらゆる施設があるが、なかなか足を運ばなかったこの4年間である。せめて行きたい展覧会にくらいは行ったほうがよいのだろう。

 

 箇条書きになってしまったが、これらを組み合わせていけば楽しく毎日を過ごせるのではないだろうか。勉強のほうもしっかりやらなければならないが……

 

 

歓楽極まらず哀情多し

 夏休みに突入した。今年は学部生としての最後の夏だし、なにか大学生の休みらしいこともしようと思っているのだがなかなかそうもいかない。別段忙しくはないのだが、勉強をしようとおもってぐずっている間に一日が終わりかけているという事が多いのだ。毎日がお休みというのも善し悪しで、未来に向けて何かせねばならないという焦りと、そうはいっても今動くのはだるいという感情の板挟みである。例えば平日はしっかり勉強して、週末はパーッと遊ぼうなんて思っていても、平日にあまり勉強できないがために週末遊ぶことに罪悪感を覚えたりする。

 

 「この夏やりたいことリスト」を戯れに作ってみたのだが、100個思いつこうと思って思いついたのは52である。それも大半がかなり苦し紛れであって、正味のところ思いついたのは2,30個というところであろうか。「○○と会う」だとか「○○を食う」だとか、そんなようなことしか思いつかないあたり人間としての底が知れるというものだ。

 しかしあるいはそれこそが日々を生きるということかもしれない。幸せというのは日々の暮らしのなかにある、とは様々な古典の教える通りである。何かを成し遂げる、やり遂げることとは無関係に、日常の中にどれだけ楽しみを見出せるかが大事なのだ。その意味でこのリストに書いてあることは、「やると幸せになれるちょっとしたこと」のリストなのだから、大いに消化に励めばよい。

 

 そうはいいつつも、空いた時間に勉強をしない/できないこと、すなわち何かを成し遂げるための努力を行わないこと、に対する罪悪感は無視できない存在感を持つ。それは間違った感情、というわけではない。そうやって努力することでいつかは大輪の花を咲かせることもできよう。だが、それは日々の暮らしを楽しもうという際には明らかに「余計なモノ」なのだ。ここの折り合いをどうつけるか、というのがここしばらくの課題といえるかもしれない。まだ若いのだから、何かを諦めるということはしたくないものだが。

 

 

 働けば、あるいはこういうことは考えなくてもよいのであろうか。実際バイトしている時間の大半はバイトの事柄でワーキングメモリが埋まってしまうので、将来やら進路やら研究やらのことを考える必要はないわけである。仕事終わりはだいたい疲れて寝てしまうし、精神的な健康を考えれば、ますます働いたほうがいいように思われる。とはいえ、結局仕事を通した自己実現というものをイメージできないがゆえに大学生を続けるわけである。修士の夏にはもう少し、仕事か研究かに明るいイメージを持って前向きに取り組んでいきたい。

D'où viens-je ? Que suis-je ? Où ai-je ?

 今年もいよいよ熱くなってきた。梅雨が長いから今年は冷夏~~などという話を小耳にはさんだ気がするが、東京は今年早速の猛暑日である。勘弁願いたいところだ。

 

 さて、「天気の子」の感想を除けば今月の頭に一度更新したきりであったが、今月かなり紆余曲折あって、来年は京都に進学するか北欧に戻るかの2択になりそうだ。東京にどうにも居られなさそうだと分かった時には多少ショックを受けたのだが、考えてみればこれも道理の通らない話である。上京したのもつい3年半前で、半年前には異国の地にいたのだし、私自身東京という土地自体に愛着のないことは明々白々である。

 

 であれば、何故「東京を離れなければならない」ということになんとなく寂しさを抱いたのか。思うに東京時代というものが私の青年期の始まりと同時だったからのように思う。上京する人間は皆大なり小なり何かを期待してやってくるであろう。私もご多分に漏れずそのクチで、なんとなくの期待感を持って大都会トーキョーの門を叩いたのだ。それが「都落ち」 (京都に進学すればこれはこれで「上京」だと思うが) したとなれば、その漠然とした期待感は消え失せ、夢持たぬまま夢破れた少年のような気持になるのも無理からぬ話である、と自分に優しい言葉をかけてみる。

 

 とはいえ実際にはやりたいことが見つかって、よりそちら方面の研究ができそうな処へ行くのだから、夢破れたどころか始まってもいないのだ。フラフラしていて大丈夫? と他人に言われたり自分でも思ったりすることはあるが、ようはフラフラしながらも生きていけるだけの実力を都度つけていけばよい。勿論、打ち込みたい/むべきものが見つかればいつでものめりこめばいいのだし、人生にしがらみもなく出世も金も望まないなら、大事なのはやりたいと思ったことをやることなのではないかと思う。目下卒論執筆も怪しい我が身ではあるが、人生気負わず行くというのが一番かもしれない。それが私なりの狂気である。

 

 

 最近、5代目古今亭志ん生「なめくじ艦隊」を読んで、なるほどそういう生き方があるのかと思わされることがあった。この人の場合は生き方というよりもなんとか生きてきたという感じが強いのだが、極貧にあえいでなお酒を飲んで憚らない姿勢には江戸っ子というべきか、ある種の潔ささえ感じさせる。本人の語りを信じるならば、この人は若い頃に遊びに遊んでいくところがなくなったあげく芸の世界に入り、酒を飲みながら芸に向き合って、果ては大名人となった。「なめくじのように世の中をヌラリクラリと渡ってきた」と言うからには、やはり相当の苦労があったのだろうと思う。到底世間に顔向けできない、と端から見ていて思うようなことでも、当人はどこふく風というありさまで、これはこれで君子のあるべき姿なのではあるまいか。まあ彼の場合には少し酒は控えたほうがよかったのであろうが。

 

「陽菜」のいない世界で今日も俺は生きている

「天気の子」を見てきた。号泣してしまった。以下はネタバレとヒネクレである。

 

 

 

 モノローグから考えるに、帆高の家出の理由は思春期にありがちな、「とにかくここ (実家のある島) に居たくない」という気持ちであろうと思われる。地元に蔓延するなんとなくの息苦しさに耐えきれなくなった末に、カネもコネもなく東京へ出てこようとするあたり、若さに身を任せた暴走といえる。

 

 保護者になった圭介はそういった若さゆえの暴走に寛容であり、事情もよく聞かずに仕事を与えたりする。それは帆高に実際に若い頃の自分を重ねていたこともあろう。自分のできる範囲での協力はする一方で、警察沙汰になった時には罪悪感は感じながらも我が身を優先する。そこにはちょっと優しい「大人」としての正しい姿がある。

 

そうした大人の優しさに支えられていた帆高だが、複雑な事情を抱えた陽菜 (と凪) を支えようとしたことで暴走していく。当たり前である。自分一人のことも満足にできない若者が、人の人生を背負えるわけはないのだ。刑事のセリフにもあるが、たしかに帆高は人生を棒に振った。拳銃も発砲したし、警察から幾度となく逃亡する。保護観察処分となっては、おそらく「まともな」人生は歩めまい。

 

 

 しかし、帆高は陽菜と出会ったのだ。

 

 帆高にとって陽菜は、16年という短い人生の中で、おそらく初めて出会った命を懸けるに値する他者なのだ。帆高にとってそれは何よりも価値のあるものだからこそ、たとえ東京が水の底に沈もうが、自分の人生が滅茶苦茶になろうが知ったことではない。傍らに陽菜がいることが何よりも重要なのだから。そこにはためらいも、葛藤もない。

 

 むしろ葛藤するのは保護者である圭介である。帆高と違い彼は「大人」である。仕事があって、娘も引き取るという目標もある。飄々としていながらも、背負うものはきちんとあって、それは本人のセリフからも垣間見ることができる。「大人」として帆高への責任も果たそうとしているが、彼が「大人」の領分を超えて帆高に肩入れしてしまうのは、彼妻、圭介にとっての「陽菜」を理不尽に奪われたという経験があるからである。

 

だからこそ、圭介が刑事に組みかかるときに発する「お前らが帆高に触んじゃねぇ!」というセリフには心を打つものがある。あの瞬間、圭介にとって刑事は「陽菜」を奪った世界の理不尽そのものなのだ。その理不尽に立ち向かうために、圭介は「大人」であることをかなぐり捨てる。

 

  「天気の子」は、帆高と陽菜のどこまでもひたむきな純愛の物語であり、また圭介が、「陽菜」を奪われた「帆高」として、青年と大人の間を揺れ動く物語でもある。感動する作品なので、ぜひ劇場に足を運ぶべきだ。しかし話はこれで終わらない。

 

 

 エンディングロールが終わって、感動的な物語から現実に引き戻されたとき、私はある事実に気づかないではおれなかった。つまり、まったく残念なことだが、論理的に考えて、私には「陽菜」がいないということである。

 

 およそ人として生まれて二十と数年、陽菜のような人に巡り会えなかったことは悲しい事実だが、まあ仕方のないことである。身を焦がすような熱愛をしてみたいという気持ちもないではないがしかし、私が問題としているのは愛情に限った話ではない。 およそそれのためなら全てを投げ打っても構わないという人、物、事……そういった「陽菜」はいない一方で、日々ちょっとした幸せがあり、「青空」が広がる世界に私は生きている。

 

 青空を見るだけで人はなぜだか幸せになれる、とは中盤の帆高の台詞である。人はパンだけでは生きていけないかもしれないが、日々の「青空」があれば生きていけるのだ。

 

だが、そう言っていた帆高は青空を選んだだろうか? 「世界のあり方を根本から変える」選択を迫られた帆高は、「青空」より「陽菜」を選んだ上で「俺はここで生きていくんだ」という力強い肯定で締めくくっている。なんてこったい。「陽菜」マウンティングはやめてくれ。私に「陽菜」はいないんだ。それでも「青空」を見上げて日々頑張って生きているんだ。

 

 圭介はどうだろう。たしかに妻を亡くしてからは燻っている雰囲気だったが、娘がいる。だからこそ3年後のシーンでは見事に事務所を立て直していたではないか。彼の生き方にもやはり「陽菜」の影響がある。

 

「陽菜」を選ばないというのは「大人」になるということだ。逆に「青年」ならば「陽菜」を選ぶこともできる。しかし私の青年期は、「陽菜」に出会うことなく終わろうとしている。もはや若さに任せて家出する度胸はない。しかし、また「陽菜」に出会うことなく、「青空」を拠り所に「大人」になることの恐ろしさも感じる。たしかに晴れ間があるうちはいいだろう。 だが雨になったら? 嵐が過ぎ去らなかったら? 不安が止むことはない。

 

 空から女の子が降ってくることはないし、女の子が空へ連れ去られることもない。全てよし、かくあれかし。そうして晴れたり曇ったりする空の下で今日も、私は鏡の中に「島で大人になった帆高」を見つけるのである。

 

必要なのは狂気かもしれない

 普通に生きることが難しい時代である。景気は回復してるのか怪しいし、ジャパン・アズ・ナンバーワンなんて40年も前の話だし、年寄りは増えるし、若者は選挙に行かないし、ブラック企業は無くならないし、AIなんてわけのわからないものが出てくるし、自然災害は多いし、地方にカネはないし、移民は増えるし、テロは起こるしで、全くロクでもない時代である。そんな中で、普通に生きることが難しいということがよく言われる。大学に行かないなんて普通じゃない、就活しないなんて普通じゃない、給料が足りないから普通じゃない、忙しすぎて普通じゃない、恋人がいなくて普通じゃない、35までに結婚しないなんて普通じゃない、40過ぎて子どもがいないなんて普通じゃない。ありとあらゆる「普通」の定義が世の中には溢れているが、その中から自分に合う/合わない定義を見つけてきては、安心する/不安になるのが関の山である。しかし、全く知らない、世の中にたくさん蠢く人の平均が「普通」なのだ。しかし世の中は多様である。数値化できるデータを持ってきて単純に割り算をして、それと自分を比べて何かいいことはあるだろうか? 全くない。そんなことはわかりきっている。

 

 しかし世の中の漠然とした「普通」をやり過ごしたとしても、自分の周囲の「普通」が襲ってくる。そんなところへ行くなんてありえない、何を考えてるんだ。周囲と同じように生きたいと、想像以上に強く思っている自分に驚かされもする。周囲の人は周囲の人なりの考えがあって、その選択をしたのだろう。でも自分には考えていることがあって、こうするのが良いであろうという考えがあって、こうしたいという希望がある。そのうちのどれかが、あるいは全てが周囲と衝突する。いや実際に真正面からぶつからなくても、なんとなくぶつかりそうな進路を取っている。「船長、このままでは正面衝突です!」と頭の中でクルーが喚きたてる。わかってる。衝突して死ぬのはまっぴらだ。自分が折れるのが最も楽だし、周囲の船があまりにもそういう選択をしているものだから、「面舵いっぱーい!」と叫ぶ準備をする。しかし、そうして衝突を回避していったい何があるのか。周囲の「普通」は私が感じるもので、だれが保証してくれるものでもない。結局のところどこかで座礁して、責任問題になった時、そこでやり玉に挙げられるのはやはり船長たる私である。うーん困った。進むも地獄、引くも地獄とはこのことである。

 

 自分の船に自信があればまた違うだろう。最新鋭のエンジンを積んでたり、頑丈な材料でできていたりするなら、衝突したところで力業で相手の船を沈めることもできよう。あいにくと、私の船はそんなに特殊じゃないんです。エンジンも建材も、型番すらわからないんです。そうしたときにどうするか。そこで狂気がオン・ステージである。「衝突しますよ!」はぁ。「沈みますよ!」ふーん。「乗客の命が!」あっそう。衝突して、船が沈むことが予想されても、「おお沈んどるわ」くらいの感覚で居られる狂気を養うことが重要な気がする。

 

 船のたとえがいまいち内容を分かりにくくしてしまった。要するに、人と違うことをすることはその先に生存できる環境があるのかのリスクが大きいし、その過程で周囲の人間と衝突するリスクもあるのだ。しかしそれでも、自分がその行動の妥当性を疑えないのであれば、たとえ賛同者が一人もいなくとも実行するべきであろう。それを実行するのに、少なくとも私のような矮小な存在ではとても素面でできそうにない。それを可能にするのが「狂気」という精神状態なのではないかと私には思われるのだ。いろんな「普通」に中指を立てて、普通に幸せな将来をどぶに捨てて、誰も理解してくれずとも自分に対する絶対的な信念を持ち続ける狂気が、今の私に必要なもののようだ。

 

 

Everything must go

 "Hearts Beat Loud" という映画を見てきた。長年続いてきた家業のレコード屋の閉店と娘の大学進学に伴う旅立ち、人間関係のごたごたやら親の認知症やらが同時にやってきて、夢をあきらめきれない中年主人公が翻弄されていく映画だった。超名作とはいえないが、音楽をテーマにした作品でもあり、曲が非常によかった。

 

 6月も梅雨らしい梅雨を迎えないまま終わろうとしているが、私も進捗という進捗を上げていない。卒論のテーマは決まらないし、TOEFLの勉強も芳しくない。人間関係も狭まっていくばかりで、運動もなかなか習慣づかない。ないない尽くしの日常を送っている身分としては、冒頭の映画の主人公の在り方には共感できるものがあった。

 

 結局、どうしようもないのである。一時的に何かに力を入れることはできても、それが状況を劇的に変える手段となることは稀ではなかろうかと思う。そもそもあちらを立てればこちらが立たずで、極端なことはなかなかやりにくい。そうして生活のバランスを何とか保とうとしているうち、時間はどんどんと過ぎていく。

 

 生産的になれないものかとインスタグラムを消してみた。Twitterのアカウントも消してみた。その結果どうなったか? Youtubeを見る時間と公園で虚空を見つめる時間が増えた。自分を人一倍自堕落だとは思わないが、勤勉であるとも思えない。

 

 日本を「脱出」したいという気持ちはあるが、これも大方現実逃避の意味合いが強い。妄想に近いかもしれない。それは実現可能性が低いということももちろんだが、それ以上に一度ことがうまく運んだあとは必ずその後も成功し続けるだろうという非現実性のためである。

 

 漠然と、こうしたい、こうはしたくない、という気持ちがある。それに基づいてやることを決定する。しかしやりきれることは少ない。意志が弱いのだということにして話を終えるのは簡単だが、意志の強さというのはとどのつまり、生活の中の様々な要因によって熱意を醸成しまた適切に振り分ける力が左右されるという大原則の上で観察される、ある事柄に関しての熱量に過ぎないので、結局あることがらに対して意志を強く保つためには生活全体を見直さなければならないだろう。そして生活を送りながらそれを根本的に変えることは、ちょうど走っている車に乗りながらエンジンの不調を点検しようというようなもので、まったく不可能であるか場当たり的な対応になることが多い。

 

 だから流されていくしかない。自分の意志でどうにかならないことは諦めるしかない。そして自分の意志でどうにかできることなどないのだ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=IwOfCgkyEj0