成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

歓楽極まらず哀情多し

 夏休みに突入した。今年は学部生としての最後の夏だし、なにか大学生の休みらしいこともしようと思っているのだがなかなかそうもいかない。別段忙しくはないのだが、勉強をしようとおもってぐずっている間に一日が終わりかけているという事が多いのだ。毎日がお休みというのも善し悪しで、未来に向けて何かせねばならないという焦りと、そうはいっても今動くのはだるいという感情の板挟みである。例えば平日はしっかり勉強して、週末はパーッと遊ぼうなんて思っていても、平日にあまり勉強できないがために週末遊ぶことに罪悪感を覚えたりする。

 

 「この夏やりたいことリスト」を戯れに作ってみたのだが、100個思いつこうと思って思いついたのは52である。それも大半がかなり苦し紛れであって、正味のところ思いついたのは2,30個というところであろうか。「○○と会う」だとか「○○を食う」だとか、そんなようなことしか思いつかないあたり人間としての底が知れるというものだ。

 しかしあるいはそれこそが日々を生きるということかもしれない。幸せというのは日々の暮らしのなかにある、とは様々な古典の教える通りである。何かを成し遂げる、やり遂げることとは無関係に、日常の中にどれだけ楽しみを見出せるかが大事なのだ。その意味でこのリストに書いてあることは、「やると幸せになれるちょっとしたこと」のリストなのだから、大いに消化に励めばよい。

 

 そうはいいつつも、空いた時間に勉強をしない/できないこと、すなわち何かを成し遂げるための努力を行わないこと、に対する罪悪感は無視できない存在感を持つ。それは間違った感情、というわけではない。そうやって努力することでいつかは大輪の花を咲かせることもできよう。だが、それは日々の暮らしを楽しもうという際には明らかに「余計なモノ」なのだ。ここの折り合いをどうつけるか、というのがここしばらくの課題といえるかもしれない。まだ若いのだから、何かを諦めるということはしたくないものだが。

 

 

 働けば、あるいはこういうことは考えなくてもよいのであろうか。実際バイトしている時間の大半はバイトの事柄でワーキングメモリが埋まってしまうので、将来やら進路やら研究やらのことを考える必要はないわけである。仕事終わりはだいたい疲れて寝てしまうし、精神的な健康を考えれば、ますます働いたほうがいいように思われる。とはいえ、結局仕事を通した自己実現というものをイメージできないがゆえに大学生を続けるわけである。修士の夏にはもう少し、仕事か研究かに明るいイメージを持って前向きに取り組んでいきたい。