成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

クソみたいな卒論を書いている私から未来の私へ

 タイトル通り、これは私自身へあてたメッセージです。

 

 さて、現状私は卒論を書くための実験にようやく着手しようとしたところですが、まったくやる気になりません。実験のための倫理審査の書類も書きあがらず、ワードを開いたり閉じたりして無意味な時間を過ごしています。それというのも、このまま書き進めて出来上がるであろう「卒業論文」というもの――私自身は「便所の落書き」とでも呼びたいですが――の出来が、あまりにもお粗末になることが自明だからです。

 

 正直なところ、私は今まで他人の卒論話を聞いていて、なぜそんなに大変という話になるのか全く分かりませんでした。1年という時間があって、指導を受けながら論文を書くのだから、卒論にやる気がなければサッサと終わらせればいいし、やる気があるならしっかりと取り組めば、スケジュール的には余裕をもって終わらせることができるだろうと。しかし、現実はそう甘くなかったのです。今や、私は今年の終わりになにか文章を書きあげるために、なんのパイロットテストもせず、なんの学術的意義も見いだせない調査を、恐れ多くも卒業論文、学術研究などとのたまって遂行しようとしています。

 

 どうしてこうなったのか? 理由はいくつか挙げることができます。急な帰国で3年秋は卒論についてまったく考えていなかったこと、4月から取り組んできて、全く具体化しないまま夏休みに突入したこと、指導教員があまり協力的でなかったこと……それらが全て複雑に絡み合い、テキトーな仮説をテキトーな調査計画の組み合わせが完成しつつあります。

 

 私としては指導教員の指導方法に文句をつけたいところですけれども、それも振り返ってみれば、さして人柄を知らない研究室を選んでしまったこととして反省すべきでしょう。研究というものは、少なくとも私の分野においては、研究室一丸となって取り組むものではなく、個々人として取り組むべきものですから、己を燈明として進むしかないのです。先達からのアドバイスは非常に貴重であるとはいえ、それに流されていては研究は進みません。その点では、むしろ甘えるような姿勢で意見など求めるべきではないのです。もちろんこの半年強、人の言葉に振り回されたおかげで、自分では読まなかったであろう文献、先行研究に触れることができたのは事実ですが、それが研究として形にならないというのであれば全く意味のないことです。自ら研究もし、幅広い知識も自発的に身に着けるというのがあるべき姿ではないでしょうか。

 

 研究という枠を離れて人生一般を考えたときにも、この半年の出来事は象徴的だったと思います。大局的にどうなるかわからないまま、目先の物事がうまくいかず立ち往生する、師となる人からの助言を期待して他人の判断に流されるということを繰り返すのは非常につらく苦しい期間でありました。一生のうち、なるべくこのような時期は少なくあってほしいものです。自分を頼りにして進むしかないのだということを強く思い知らされました。

 

 私はこのままこのクソみたいな卒論を書き上げます。余りにもクソのため、10人中8人が声を上げて罵り、残り二人は卒倒するようなものが出来上がるでしょう。しかし私はそれでも良いと思います。こうなってしまったものは仕方がない、そういう気持ちで行こうと思います。いつかあなたが今を振り返り、「あれも成長のきっかけだったよ」と言えるようであれば、多少は救いがあるのかもしれません。ですが、そうでなくとも、2度と思い出したくない記憶となっても、これだけ苦労したことを忘れてほしくないのです。

 

 あなたの幸せを心からお祈り申し上げます。