成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

「その時」に「そこ」にいるということ。

 昨日、祖母の犬が死んでいたらしい。

 

 「死んでいたらしい」というのは、今日たまたま別件で母に電話していて発覚したたためである。16年とコーギーにしては大往生だった。小学生の頃はたまに散歩にも連れて行ったが、いつも元気に私の周りを走り回るので、正直なところ少し怖かった。こちらがある程度経験を積んでからは、ただ遊んでほしくて飛び回っているだけだとわかり、最後3年くらいはボール遊びなんかを祖母の家を訪ねるたびにしていた。1ヶ月前に帰った時には後ろ足が全く動かず立ち上がれもしない状態であり、祖母ももうそろそろだろうという話はしていたのだが、それでも私が家を去る時には前足だけで立ち上がり、今生の別れをしようとしているのかな、などと思ったことを覚えている。

 

 不思議と、それほど悲しいということはない。今度祖母の家に行ったとき、姿が見えないことで「死」が実感できるのかもしれないが。ただ、私が昨日クラブだのなんだのと生を謳歌していた時に(正確な時間軸は違うだろうが)、彼は死に、祖母が埋葬したのだなぁと思うと、その時にそこにいなかったという事実が重くのしかかってくる。私は今後、「その時」に「そこ」にいることができるだろうか? 今のまま行けば難しいだろう。「その時」のために「そこ」に居続けるというのも馬鹿げている。「そこ」に居なくとも、「その時」に後悔しないように生きていくしかないのだろう。

 

 安らかに眠ってください。

 

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