成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

とーきょーぐらし!

 さて、4月頭に記事を更新してから2週間以上間が開いてしまった。今月の上旬はホームレス大学生状態だったし、中盤以降は授業や入居やバイトなどでドタバタしていたのでしょうがなかったのだ。とはいえこうしてまた生活を省みる時間ができたのはありがたい話である。

 

 東京に帰還してからもうすぐひと月が経つ。3月の今頃は足にギプスをつけながら日常生活にヒィヒィ言っていたことが信じられないほど、私の生活の中にフィンランド感/海外帰り感はないし、東京への再順化も進んでいる。満員電車も心を殺せば乗れるようになったし、日本語の教材をつかって勉強しているし、日常的に英語も話さない。

 

 そうした生活は確かに楽な面もあり、また辛い面もある。学問的に言えば、このまま研究者を目指すなら分野的に英語でのインプット/アウトプットへと移行していく必要がある。それを考えると今のような日本語でのインプットは望ましくない。しかし一方で今やっているようなことをすべて英語で学ぼうと思えば2倍では効かない時間がかかる。また生活という面では、やはりコンビニや自販機、アマゾンなどお手軽にモノを買えるのは確かに便利なのだが、逆に家でコーヒーの一杯でも煎れようかということがなくなってしまった。その時間が心の余裕の表れだったような気がするし、今の自分は進学のことを考えなければならず、そうしたゆとりもなく切羽詰まっている自分に気づき、余計に切羽詰まってしまう。

 

 フィンランドでの生活を礼賛する意図は毛頭ない。特に後半は単調だったし、何か「現実的なこと」をしたくてもどかしかったのも事実だ。しかしいま自分にとっての現実へ帰ってきて、逆にやることが多すぎて途方に暮れているというのは喜劇というほかない。

 

 また、4年という時期なので、就職が決まった/もうすぐ決まる友人も多い。そうした友人たちは人生の次のステップについて考えていることが多いので、なんだか浦島太郎にでもなってしまったような心持がする。彼らの悩みや考えていることは筋が通っているし、共感もできるのだが、今ではそれは己の問題というには余りにもかけ離れた何かになってしまったのだ。誰が悪いということでもなく、ただそういうものとして受容するしかないのだが、それなりの頻度で会っていた友人に特にそういう人が多いので、少し寂しい。結局のところ、友人レベルでは人生の意思決定に関わることはできず、話を聞いて少し負担を軽くする程度のことしかできないのだ。友人の悩みに何もできないというのも申し訳ないので、最近は認知行動療法についての本を流し読み程度に読んでいる。己の話を己にしてもしょうがないので、それはワールドワイドウェブの片隅に便所の落書きとしてこうして載せている。とにもかくにも生活を構築しよう。日常を豊かにすることが人生を豊かにすることなのだ。

 

 

「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
 しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
 ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
 「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
 また一休みして、考えこみ、それから、
 「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

――――――――ベッポ ミヒャエル・エンデ『モモ』より