成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

雑記1

 「行動を科学する」ことが重要とされている。

 

 「こころ」を直接科学することができない以上、その副産物であるところの行動をどう分析していくかがカギだというわけだ。スキナーは動物を計算によって行動する機会とみなし、オペラント条件づけこそすべての行動のメカニズム、すなわち心の枠組みであるとした。それから約半世紀が経って、今やヒトすらもその枠組みで考えてみましょう、というのが界隈の流行であるように感じる。クロケットが提唱するように、向目標的行動、習慣的行動、パブロフ的行動の3つですべてが説明できるのだろうか。ランドは古典的な二重の情報処理を発展させた形で(意思決定とそれに伴う)行動を説明しようとしているが、どちらも面白い説だと思う。数理モデルを立てていく

 

 私は社会的認知だとか心の知覚だとか、そういう議論には疲れ果てていたのだ。ブラックボックス扱いの「こころ」の中で「こころ」がどう処理されているか、などというのは訳の分からない議論ではないかと思っていた。リッカート尺度で現れてくる傾向に有意差があった時、それが別の尺度によって計測された傾向で分けられる集団の差異を反映している、という議論はどこか堂々巡りを感じさせるではないか。これをこの先やっていっても仕方なかろうという気持ちが強かった。

 

 神経科学に救いを見出したのも無理からぬ話である。唯物的に神経活動を「こころ」とみなす(結局は因果関係にまでたどり着けることはまれだが)神経科学においては、観測可能なデータが存在するので、そのデータ分析の果てに外的刺激と脳活動の関係が説明できれば、それは「こころ」がわかったといえるのではないかという考え方は非常に刺激的で、今でも心惹かれる部分が強いが、どうしても倫理的な制約のためにヒトを対象とする場合は知覚レベルの研究にとどまることが多く、社会性や他個体との相互作用となるとラットや類人猿、カラス、アリ、ミツバチなどの神経活動という風になってしまう。

 

 いまドゥヴァールの本を読んでいるが、「動物に意識がないとしたのは行動主義の大罪だ」と徹底的にスキナーを批判している。動物の主観的世界を知りたいという動物心理学は近年盛んになってきているようである。ある意味では、行動と現象を扱っていた生物学から内面世界を扱う心理学へ広がっていく流れがあると捉えることができるかもしれない。一方で私は心理学から生物学へ全く逆の道を歩もうとしている。

 

 ヒトの「こころ」が分かるとは何か。わからないから行動を、神経をやっている。しかし根底にあるという問いがないとこの先やっていけない気がする。