エピクロスー教説と手紙 (岩波文庫) より
あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いものを選ばず、口に入れて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。
欲望のうち、あるものは自然的でかつ必須であり、あるものは自然的だが必須ではなく、他のものは自然的でも必須でもなくて、むなしい臆見によって生まれたものである。
自然的ではあるが、充足されなくてもわれわれを苦しみへは導きはしない欲望のうちで、とくに欲求の激しいものは、むなしい臆見によって生まれたものである。そして、このような欲望は、その欲望自身の自然的本性のゆえに解消しないのではなくて、人間のいだいているむなしい臆見のゆえに解消しないのである。
多くの人間にとって、休息は気抜けにより、活動は気狂いによる。
我々の生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は明日の主人でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。
われわれは、自然を強制すべきではなくて、自然に服従すべきである。そして、自然に服従する道は、必然的な欲望を満たし、自然的な欲望も、害にならない限り、これを満たし、害になる欲望はこれを厳しく却けることにある。
心得ておくべきは、多く語るのも短く語るのも、同じ目的を目指すものだということである。
われわれが必要とするのは、友人からの援助そのことではなくて、むしろ、援助についての信なのである。
欠乏しているものを欲するあまり、現にあるものを台無しにしてはならない。現にあるものも、我々の願い求めているものであることを、考慮せねばならない。
肉体の衝動がますます募って性愛の交わりを求めている、と君は語る。ところで、もし君が、法律を破りもせず、良風を乱しもせず、生活に必要なものを浪費しもしないならば、欲するがままに、君自身の選択に身をゆだねるがよい。だが君は、結局、これらの障害のうちの少なくともどれかひとつに行き当たらないわけにはゆかない。というのは、いまだかつて性愛がたれかの利益になったためしはないからであって、もしそれがたれかの害にならなかったならば、その人は、ただそれだけで満足しなければならない。
全ての欲望にたいし、つぎの質問を提起するべきである、すなわち、その欲望によって求められている目的がもし達成されたならば、どういうことが私に起るであろうか、また、もし達成されなかったならば、どういうことが起るであろうかと。
われわれは、とにかく、敬虔に犠牲を捧げようではないか、ここではそれが習慣になっているのだから。そして、最も高貴で最も尊厳なものどもにかんする事柄において、臆見のために自分自身の平静がかき乱されることなく、法習にしたがって、すべてを立派におこなおうではないか。さらに、われわれは、臆見によって、不敬虔だと責められるようなこともないようにしようではないか。というのは、我々は、このようにしてこそ、自然に生きることができるのだから。
煩いを受けないように人々から自分を守るためには、およそこの目的を達成するてだてとなりうるものはすべて、自然的な善である。
より大きな快を楽しむために、これらのさまざまな苦しみに耐えることは、よりよいことである。また、もっともきびしい苦しみに悩まないために、これらのさまざまな快を差し控えることは、有益である。