成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

運命は強者さえも打倒するのだから

 久々に、とある友人に会ってきた。彼とはもう3年近い付き合いになるが、出会った当時から霞が関で働きたいと息巻いており、無事希望しているところに内定を獲得したというのは、SNSを通じて確認していた。

 

 彼は非常に付き合いやすい人間であると同時に、なんとなく相容れないなと感じるところがあった。都市圏育ち中高一貫名門校卒で法学部へストレートに進学した彼の経歴と、学外学内を問わず積極的に活動しつつも将来に明確なビジョンを持ち、アメリカへの憧れを語る彼の姿に、私は尊敬を持ちながらも、彼のあまりの「正当性」になんとなく引け目を感じていた。

 

 そんな彼から、「知り合いの学祭があるから一緒に回らないか」というお誘いが舞い込んだ。最後にあったのがずいぶん前であり、今会えば私の彼という存在の受け止め方に変化もあるだろうと思い、今日晴れて会合と相成ったわけである。

 

 彼は相変わらずの積極性を発揮し(他校のサークルの後輩をわざわざ見に来るとは!)、明るい態度は崩さなかった。職場の風通しが良さそうだということに喜び、同期の優秀さを誇る彼は以前と変わらず、私も昔に戻ったかのような気分に浸れた。

 

 しかし、この国の将来ということに話が及んだ時、かなり悲観的だったことに非常に驚いた。彼は「地方は廃れ、東京だけが栄える」国は「沈みゆく船」だとし、財務や経済の「地方から出てきて、国のために我が身を犠牲にする覚悟のある同期」たちほど我が身を犠牲にできないと述べ、自らの職務に関しては「やりがいと社会的地位」があるとしたものの、例えば米中の貿易戦争において、日本の役割は「国際的秩序の維持を呼びかけることだけど、今は秩序を守らない国が有利な状態」だと半ば自嘲していた。

 

 私は彼のことが人間的に好きだし、今回の彼の主張にはむしろ賛成する立場の人間である。しかし、そういった日本悲観論を彼の口から聞きたくはなかったのだ。もし彼が「日本はまだまだやれる」などとのたまっていたらそれこそ私は憤りすら感じたであろうが、それが私の知っている「彼らしさ」、夢を語り、出世欲と愛国心で立ち回る彼の放つ眩しさだったはずである。現実を知らねば国を回せなかろうが、外交という華々しい場で立ち回ろうという人間さえ国家に悲観的であったなら、いったい誰が希望を持てようか。

 

 もちろん彼以外にも霞が関で働こうとする知り合い・友人は多い。そして必ずしも国家のために身を捧げよ、と言っているわけではない。そうではなく、私の周囲で最も国というものに夢を託していた人間であった彼から後ろ向きな発言が出たことで、自分も周囲も年を取ったことが意識されたまでである。

 

 付け加えるとするならば、この国、というか東京への不安と不満が再噴出した。「東京と地方」という対比において、「地方」とは一体何を指すのか? 北海道から沖縄までの46府県レベルでも、共通する課題もあれば個別的課題もあろう。それを一括りにして、「東京と地方」の問題を考えて、それを解決することに果たして意味はあるのだろうか? 東京は日本だが、日本は東京ではないのだ。

 

 行政の外交・安全保障部門が各地方の実情を気にする必要があるのか、まして新人がそこまで考える必要があるのかといわれればそれまでだが、予算という形で首根っこを握っている人たちが「地方はもうダメだね」という意識で居るのは、診察する前から「助からない患者しかいない」と思っている医者しかいない病院のようなもので、適切な対処ができないのではないかと考えてしまう。

 

 まあしかし、所詮は東京の片隅で燻っている大学生の妄言であって、現場ではもっと賢い人がもっと真剣に取り組んでいると思うので、どこまでもクソリプの域を出ないのであって、自分は自分で生存の道を模索しなさいという話ではあるのだが。