成すも成さぬも 今を楽しめ

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

SNSをやめてみた話

 また3ヶ月ほど投稿が空いてしまった。留学時代などほぼほぼ毎日更新していたことを思うと、我が身の非勤勉さが思い知らされる。

 最近は進まぬ研究に苛立ったり、バイト先で教育の沼にハマったり、ゴルフを初めてみたりしていた。京都へ越してきてもう5ヶ月くらいになるが、状況は半年前に比べて好転していないし、このままで大丈夫か、という思いは日増しに募っていく。とはいえ、何かできるかと言われればそうではないのだが……

 

 さて、今日は表題の通りの話をしたい。私はTwitterやらInstagramやらFacebookやらいろんなSNSをやっていたわけだが、これらのアプリを先日自分のスマホから消去した。Twitterでは特に複数のアカウントを運用していたのだが、「情報収集用」として活用していたアカウントのタイムラインで、あまりにも強い肩書を持った (とはいえ年が大きく違うわけではない) 人たちがムズカシイ話について論戦しているのを目の当たりにしてしまったからである。遊び呆けたあげく分野に新規参入してきて右も左も分からない私であるから、やれ新しい手法だの、やれ統合的な理論だの、やれ学部生の頃はこの勉強をしていただの言われてしまうと、自分の知識量と考察力のなさに辟易してしまうのだ。

 

 そこで考えたことには、SNSで疲れてしまってもしょうがない、ということである。すでにあらゆる人たちが主張していることだが、SNSとは緩いつながりであって、対人関係のように強固なつながりではない。そこでの交流コストがリターンよりも大きいのであれば、やめてしまった方がよっぽど健康的である。この場合天秤に乗っているのが私の精神的健康&1時間に5~15くらいの時間と、他人の思想・思考の断片&オンラインなどでのイベント情報だ。これは別の話になるが、私はオンラインでの会話に全く集中できない人間であるし、正直イベントに参加したところでどれほど役に立つか怪しい。そして他人の思考はためになることもあるが同時に疲れる原因にもなる。

 

 一方Instagramでは現実でできた友人たちとつながるために用いていたが、そのほとんどは交流のない知人かそれ未満になってしまった。そんなほぼ他人みたいな人の人生を眺めても仕方がないし、維持したいと思っている友人にはLINEやらMessangerで連絡を取る (トーク機能が主に使われているこれらについてはSNSに含めないものとする) 。

 

 やめて1週間以上になるが、本を読む時間は増えたし、考えごとをする時間は増えたように思うし、今のところ不便さは感じていない。せいぜい「あっこれネタツイに使えそう」みたいな馬鹿馬鹿しい思いつきを誰にも告げないまま忘れてしまうのを若干もったいないように感じてしまうくらいだろうか。「SNSは現代のアヘン」なんて言い回しをどこかで聞いたような気もするが、依存症患者を出す威力の一端をやめてから認識できたような気もする。このブログをまた再開する気になったのも「発信したい欲」の残骸だろう。

 

 以前も一定期間アプリを消すことはあったが、今回は復活する気は皆無である。とはいえ消してからまだそれほど時間が経っているわけではないので、また味をしめて再開するかもしれない。

 

奮起せよ。坐るがよい。眠りがそなたたちにどんな益があるか。病んで、矢にいられて苦しんでいるものたちに、どんな眠りがあるのか。 ーーーースッタニパータ